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伊奈かっぺい&伊藤君子ライブ〒562-0013 大阪府箕面市坊島1-7-17/TEL:072-724-0324/FAX:072-724-2395/E-Mail: info@tumiki.com

障害のあるひともないひとも共に働き、給料をわけあう豊能障害者労働センターの30周年を記念して6月24日に開催するライブの情報をお届けします。

トピックス
豊能障害者労働センター30周年記念
伊奈かっぺい&伊藤君子ライブ トークとジャズ
津軽の詩・東北の風・魂の響き
盛況のうちに終了しました。ご来場いただいたみなさん、ご協力いただいたみなさん、ありがとうございました。
伊奈かっぺいさんのメッセージ
試聴できます!
サマー・タイム 伊藤君子 
別離(へばだば)伊藤君子・伊奈かっぺい
私(わ)の好ぎなもの(マイ・フェイヴァリット・シングス)伊藤君子
(「津軽弁ジャズ~ジャズだが? ジャズだじゃ!」より)

2012.06.25 Mon 伊奈かっぺいさん、伊藤君子さん、ありがとうございました。

 昨日の「伊奈かっぺい&伊藤君子ライブ」は、ちょうど満席になり、立ち見のお客さんもなく、とてもいいライブになりました。
 わたしはロビーの担当でしたので、ライブの模様をすべて観ていたわけではなく、特に1部の伊奈かっぺいさんのお話の時はまだロビーの仕事がありましたので、残念ながらまったく観ることができませんでした。
ただ、時々ホールをのぞくといつも笑いが絶えない感じで、その笑いもどこかゆったりしていて、わたしたちが気づかないでいたり忘れてしまった小さなできごとを思い出させ、ちょっとした生きる勇気をもらった気がしました。豊能障害者労働センターの記録のために撮影したDVDで、ゆっくりと見せてもらおうと思っています。
 第2部の伊藤君子さんのライブは、すでにロビーの用事も終わっていましたので、ほぼ完全に見させてもらいました。
 以前にも書いてきましたが、ジャズボーカルと言えばおしゃれなライブスポットやラウンジなどをイメージしてしまうのですが、伊藤君子さんのジャズには大地があり、都会の歌でもダウンタウンのほこりに赤く光る夕陽をあびた下町が見えてきます。
 昨日のライブは津軽弁でも英語でも歌ってくれましたが、たしかに日本語で津軽弁ほどジャズにぴったりの言葉はないかもしれないなと思いました。津軽弁で歌うと、とてもかわいい声になり、その歌の語りは大勢のひとに語っているのではなく、ひとりのひとに語っているように聴こえるのです。そしてわたしたちは歌が生まれる瞬間、歌がひとりの心からもうひとりの心に伝わる瞬間に立ち会っているのだと気づくのでした。
 童謡「赤とんぼ」や「涙そうそう」など日本の歌をお客さんも一緒に歌い、会場がひとつになり、普通のジャズのライブとはかなりちがうあたたかいライブになりました。田中信正さんのピアノ、坂井紅介さんのベースもとても素晴らしい演奏でした。
 最後に伊奈かっぺいさんが登場し、かっぺいさんの曲「別離(へばだば)」を一緒に歌いました。

のめくてやぁ のめくてやぁ (夢中になって 夢中になって)
ただうぬうぬて のめくてやぁ (情熱集中 夢中になって)
ばしらいで ばしらいで (心騒ぎ 身が踊る)
たなこの際かげで ばしらいで (今この時だからと!)
なづぎばふつけだ ほぺたこねぱげだ (額に吐息を 頬と頬を寄せ)
きもちコちょしまし なしてやとちばれ (気持ちを翻弄する なぜ突然の終焉)
おらだてかちゃまし 泣きべちょはだげな (私も心情複雑 泣き顔見せるな)
あんつかあんつごと まみしぐしてろじゃ (少しばかりでなく心配 元気でいてほしい)
たげだばしげねば (ずいぶんと寂しくなるだろうか)
へばだばさ へばだばさ (別離だよ 別離だね)
へばだば へばだば (さようなら さようなら)

意味はさっぱりわかりませんでしたが、まるで6月の雨のようにぽつりぽつりと、わたしたちの心に伊奈かっぺいさんと伊藤君子さんの声がしみ込んでいきました。
ほんとうに素敵な歌でした。

 そして、アンコールで歌われた「りんご追分」は圧巻でした。
 伊藤君子さんは美空ひばりに憧れて歌手になり、最初は演歌でデビューされたそうです。わたしは以前、彼女のジャズには隠れこぶしがあると書きましたが、あながちまちがいではなかったと思いました。
 ラジオから流れ、5才ぐらいだった伊藤君子さんの心に届いた「りんご追分」は、昨日のライブで歌われたジャズのスタンダード曲にひけをとらない世界の名曲のひとつです。
 ジャズと出会い、海外のたくさんのプレイヤーと共演し、世界でもトップシンガーと評価されてきた伊藤君子さんの「りんご追分」は、今の演歌歌手のひとたちがどうしても美空ひばりに近づこうとするのとはちがい、この名曲もまた世界のさまざまな大地と海を渡って来て、子どもの頃にラジオから聴こえてきたあの「りんご追分」そのままに彼女の心に帰ってきたような、懐かしくも切ないジャズそのものでした。

 ほんとうに、こんなライブを箕面で開くことができたことは大きな喜びとともに、わたしたちの誇りです。
 伊奈かっぺいさん、伊藤君子さん、田中信正さん、坂井紅介さん、その場に立ち会ってくださった500人のお客さんをはじめ、このライブにご協力いただいたみなさんに感謝します。
 そして、伊奈かっぺいさんと伊藤君子さんのライブを企画し、実現させた豊能障害者労働センターに敬意を表します。
                                       細谷常彦

別離(へばだば) 伊奈かっぺい・伊藤君子


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2012.06.17 Sun いよいよ来週の日曜日

 いよいよ来週の日曜日、豊能障害者労働センター30周年記念「伊奈かっぺい&伊藤君子ライブ」が開催されます。
 豊能障害者労働センターの新居さんから提案があったのが約8か月前だったと思います。
それから、豊能障害者労働センター30周年記念イベントの実行委員会を中心に長い月日をかけた準備でした。
 チケットを売り出したのが4か月前でした。伊奈かっぺいさんがあまり関西になじみがなく、伊藤君子さんもジャズが好きな方にはよく知られた方ですが、ジャズの敷居が高く、最初はなかなかチケットの売れ行きはよくありませんでした。豊能障害者労働センターを応援して下さる方々に協力を求めながら、少しずつ働きかけを続けてきました。
 その間、豊能障害者労働センターの内部では伊奈かっぺいさんや伊藤君子さんのCDを聴いたりする学習会を開くことで、このイベントをみんなのものにしてきました。
 そして、障害のあるひともないひとも全員でハガキ大のカードにひとりひとりの気持ちを伝えるメッセージ集をお二人に送りました。
 わたしは豊能障害者労働センターに在職中、数々のイベントを担当してきましたが、どれだけ出演者のことや映画のことをみんなのものにできたのかといえば、ほとんどできなかったと反省しています。その意味でも、現在の豊能障害者労働センターのスタッフはほんとうにすばらしいと思いました。
 そんな努力が少しずつ果実になって、いまでは関西ではあまり聴くことができない伊奈かっぺいさんのお話を聴ける稀有なイベントとして期待が集まり、ほぼ満席になることが予想されています。実行委員会の一員として、ご協力いただいてきたみなさんに感謝します。ほんとうにありがとうございました。
 あと数日ですが、18日に最後の実行委員会を開き、当日の運営について話し合うことになっています。
 チケットをご購入いただいたみなさん、当日のご来場を心よりお待ちしています。
                                         細谷常彦

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2012.06.11 Mon さよならだけが人生ならば、また来る春はなんだろう

豊能障害者労働センター30年ストーリーNO.6

さよならだけが人生ならば、また来る春はなんだろう
はるかなはるかな地の果てに、咲いてる野のゆりなんだろう
                                    寺山修司 

 1990年、箕面市障害者事業団が設立され、一般企業への就労が困難な「職業的重度」といわれる障害者の雇用の場として事業を開始しました。
 障害者事業団は保護訓練指導する福祉的就労と一般企業への就労との谷間を埋めるため、一般企業への就労が困難な職業的重度といわれる障害者の「次善の」雇用創出を目的とされました。それを箕面市では障害者の「社会的雇用」と呼んでいます。
 箕面市障害者事業団の設立により、わたしたちの活動を市民が運営する社会的雇用の場と位置づけるための制度づくりが、箕面市とわたしたちの間で協議されることになりました。
 わたしたちはすでにその頃、一般企業への就労をこばまれる障害者が自ら運営に参加する起業集団として、わたしたちの活動をとらえはじめていましたので、「次善の」雇用の場という位置づけとはちがうものでしたが、それでも全国的にみれば先駆的な制度であることから、わたしたちもそのテーブルにつくことにしました。
 その時代、もし大阪府の作業所制度の枠に入っていればそれなりの助成があり、財政的には楽になったのですが、作業所制度は授産施設と同じように障害者を保護訓練指導する制度で、制度上はいわゆる健全者は指導員、障害者は訓練生となります。たとえ実質は対等だといっても、年月が経ち新しい仲間がふえれば、豊能障害者労働センターの宝である「共に働き、共に運営する」という運営は崩壊してしまいます。障害者スタッフを中心にそれだけはいやだ、どんなに貧乏でもこの宝物は捨てられないと、わたしたちは団結していました。
 そんなわけで助成金がほとんどない状態の中、わたしたちは日常活動と別に毎年、箕面市民会館でのイベントをすることになりました。
 渋谷天外さん、桑名正博さんとの出会いから1990年1993年まで毎年、桑名正博コンサートを開きました。
 それに加えて1992年には山田太一さんと西川きよしさんの講演会、1993年には小室等しさんのコンサートと年に2回もイベントをした年もありました。
 これらのイベントは出演者をはじめご来場いただいた多くの市民の方々のご協力により、いずれも1000人を越える盛況で、この時代の運営を助けていただきましたし、ご来場くださった方々にご満足いただけるような質の高いイベントであったと誇りにしています。
 その間に、桜ケ丘の事務所に移転して5年がすぎていました。
 5年前にこの事務所を建設する時、一抹の不安を持ったことが現実となってしまいました。この土地は市営住宅の跡地で、5年後には整備するということは聞いてはいましたが、この事務所の土地もその計画のなかに入っていて、立ち退きを求められたのでした。
 全国から寄せられた1000万円の基金でこの事務所を建設した時は箕面市障害者事業団はまだ設立されていなくて、行政的な位置づけも整理されていなかったことや、おたがいの約束事へのとらえ方の食い違いもあり、協議は難航しましたが、最終的に箕面市障害者事業団の職種開拓育成事業として位置づけられ、坊島の事務所が建設されることになりました。

 桜ケ丘の事務所でわたしたちは、多くの友と出会いました。新しい友がリュックサックから心の荷物を広げるたびに、わたしたちの地図は描きかえられました。
 世界はいつもとつぜんわたしたちの前に立ち現れ、わたしたちは混乱しながらもワクワクしたのでした。
 もし歴史がわたしたちの肉声で語られるとしたら、はるか遠い大地に立つひとりの少年のうれし涙も悲しい涙も、わたしたちのひとみからあふれることでしょう。
 そして、何億光年の時を渡る満天の星をみつめる、たったひとりのまだ見ぬ不在の友と出会う予感に心おどらせるでしょう。
 桜井の事務所が、ふきぬける風に身をかがめながら、かろうじてわたしたちの夢をかくまってくれた袋小路だったとすれば、桜ケ丘の事務所は、わたしたちの夢見る心が解き放たれ、言葉が追いつけないほどの急ぐ心とたくわえた涙、出会いと別れと希望と後悔が突き抜ける荒野でした。
 わたしたちが主催するイベントに来てくださった山田太一さんも小室等さんも、桑名正博さんも、桑名さんとともに来てくれた小島良喜さん、妹尾隆一郎さんも、そしてわたしたちも、桜ケ丘の事務所の風を心いっぱいに吸い込みました。
 あの日、あの時、わたしたちはわたしたちの今を息づきながら、その風の色とかおりに、どこかにかくれている、なくさないで!と叫ぶたくさんの声たちにつつまれていました。
 なくしてはいけない時の贈り物は、わたしたちに切ないがゆえにしあわせな未来をてらしてくれたのでした。
 毎年春には、鳴き声を練習しにやってきて、上手になったら飛び立っていったうぐいすたち。そのすぐあとに天使のように、なぜか「だいじょうぶ」とささやいてくれた鈴虫たち。
 さようなら、そして、ありがとう。
 1993年10月31日、どしゃ降りの雨の中、わたしたちは桜ケ丘の事務所と別れ、坊島の事務所に引っ越しました。

2012.06.08 Fri 恋する方言、夢見るコトバ

 「伊奈かっぺい&伊藤君子ライブ」が間近にせまり、イベントまでの最後の豊能障害者労働センター機関紙「積木」に、ひとりでも多くの方のご来場を願って寄稿しました。
 前回に続いて2本目の原稿で、前回に書いたものはイベント特集号で、伊藤君子さんについて書きました。今回は伊奈かっぺいさんについて書きましした。
 もしかすると、このブログを読んでくださっている方にも豊能障害者労働センターの機関紙が届いているかも知れませんが、一足早く、ブログに掲載します。
 関西では珍しいイベントですので、お近くのかたはぜひご覧いただければと思います。ご来場をお待ちしています。
                                        細谷常彦

豊能障害者労働センター機関紙「積木」NO.233号掲載予定

恋する方言、夢見るコトバ
豊能障害者労働センター30周年記念イベント
「伊奈かっぺい&伊藤君子ライブ」に寄せて2

ヒロシマのカバ

 「ツネッコさん、ヒロシマのカバ、なかなか手に入らんかってん」。
 あなたはぼくの顔をみるなり、そう言いました。
 平田和也さん、ぼくはいま、2009年5月23日の朝、「平和を願う春のバザー」の準備をしていた時にあなたが言った言葉を思い出しています。「ヒロシマのカバ?」…。あなたはいつも思わぬ言葉を独特の語り口で話すので、ぼくたちはそれを「平田語」と名付けてきましたが、この時もその言葉の意味をすぐには理解できませんでした。
 その年の5月2日、忌野清志郎が亡くなりました。ぼくたちは彼と直接縁があったわけではありませんが、彼の存在をとても近くに思っていました。シンプルな言葉で、ある時は届かぬ愛を歌い、ある時はぼくたちをはげましてくれる彼の歌に勇気をいっぱいもらってきたのでした。豊能障害者労働センターはこの年、彼への追悼の意をこめて、RCサクセション時代の「COVERS」をBGMにしながら春のバザーを開きました。
 「ヒロシマのカバ」が「清志郎のカバーズ」だとわかった時、あなたが「平田語」で語る忌野清志郎へのあふれる想いが伝わってきて、ぼくは不覚にも泣いてしまいました。
 思えばあなたに限らず、山本さんも小泉さんも梶さんもみんな、いとおしい心を文法にしたひとり方言「○○語」を持っています。ほんとうに人間はみんな、コミュニケーションの狩人なんですね。

 2年前、はじめて伊奈かっぺいさんの話を聞きました。今回のイベントを共催する被災障害者支援「ゆめ風基金」の設立15年のイベントに出演されたのでした。
 ぼくはスタッフとしてその場にいましたので、じっくり聴けたわけではないけれど、何分間に1回は会場が笑いにつつまれたのを思い出します。
 かっぺいさんの笑いはいまテレビに出ている芸人さんたちのどこか暴力的な笑いとはちがい、話を聴いている間に心とからだの力が抜けて行き、気持ちが楽になって行きます。
 そして、笑って笑って笑い転げた後に、ぼくたちが見過ごしたり忘れてしまいそうなもの、役に立たないと思うものや日々の暮しの中の小さなできごとや感じたことが、実は人生の宝物だということをそっと教えてくれるのでした。

そしていつしか、「津軽弁」が母語で「標準語」とやらは「第一外国語」にあたるコトバとして現在に到る、とでも言えばわかりやすいであろうか。(中略)時に、母語でも伝えられない揺れる感情など、どうして外国語なんぞで伝えることができるでしょうか、だ。
           伊奈かっぺい(豊能障害者労働センター機関紙「積木」NO.232号)

人生を語るには、もう方言しか残っていない

 1998年にぼくたちが上映会を開いた映画「萌の朱雀」で、父親の死をきっかけに家族が山を降りる前夜、尾野真千子ふんする少女・みちるが、ほのかな恋心を従兄の栄介に打ち明けるシーンがありました。「栄ちゃん…。あんな、私な、栄ちゃんのことな、ほんまにすきやねん。でもな、行くわ、お母ちゃんと。」
 最近、NHKの朝のドラマ「カーネーション」で話題になった尾野真千子がまだ中学生で、この映画がデビュー作でしたが、栄介への恋、家族が身を寄せあって生きてきた山村暮らし、そのすべてとの別れを前にした哀しみと、それでも明日を生きようとする切ない決意が、彼女のぶっきらぼうな関西弁の奥にあふれていました。
 そうですよね。あの時のみちるの「すき」は関西弁でなくては成り立ちませんでした。

 かつて青森県出身の鬼才・寺山修司は「人生を語るには、もう方言しか残っていない」と言いました。寺山修司はぼくの青春時代、「家出のすすめ」などのエッセイや詩、演劇を通して数多くの刺激的なメッセージを送ってくれましたが、ぼくが受け取ったいちばんのメッセージは「逆転の思想」で、あたりまえとされているものを疑うことでした。
 世の中が一つの方向にヒステリックに向かい、ぼくたちをその暗闇に閉じ込めようとする時、もう一つの暗闇からそのたくらみをあばいてくれたのも寺山修司でした。
 ぼくは彼と出会っていなかったら別の生き方をしていたにちがいありませんし、おそらく障害者の友だちと出会うことはなかったと思っています。ぼくと同い年で寺山修司と同郷のかっぺいさんもまた、寺山修司の影響を受けたのではないかと想像しています。
 「努力は積み重ねるから崩れます」や「先生を尊敬しちゃいかんぞ」など、津軽弁を入り口にダジャレを連発し、笑いをつなぐ話の裏には深いメッセージがかくされていて、ぼくたちは面白おかしく津軽弁を楽しんでいる間にいつのまにか、かっぺいさんの思想に触っていることに気づきます。かっぺいさんもまた、世の中の大勢に呑み込まれることなく、自分の感じ方や自分の生き方を大切することを教えてくれているのだと思います。

 平田和也さん、「ちがうことが力」と主張してきた豊能障害者労働センターはこの30年間、異端とされてきましたが、いまこそぼくたちはひとり方言の「○○語」で、語りつくせぬ思いを必死で語る勇気を持ちたいと思うのです。
 津軽の方言詩人・伊奈かっぺいさんと、奴隷としてアメリカ大陸に連れて来られたひとびとの過酷な生活と差別の中から生まれた音楽・ジャズの故郷へと案内してくれる伊藤君子さん…。ぼくたちはお二人の力をお借りし、豊能障害者労働センターの30年を支えてくださっているひとたちと「方言でしか語れないかけがえのない人生」を分かち合い、障害のあるひともないひとも共に生きる夢見る街を耕したいと思うのです。


コロンブスが新大陸を発見した1492年、文法学者のアントニオ・デ・ネブリハはスペインのイサベラ女王に言語による国家統一を提案します。その提案は実行され、国家が制定する統一言語による民衆支配をすすめる一方、植民地では先住民たちの言語を禁止し、統一言語による支配体制をつくっていきました。日本でも明治政府のもと学校や軍で標準語がすすめられ、各地の風土や生活から生まれた方言を話す者は劣等感を持たされたり、差別されるようになっていきました。そのような歴史を知ると、伊奈かっぺいさんたちによる方言の復権は人間の復権そのもので、とても意味のあることだと思うのです。

細谷常彦のブログ・恋する経済

2012.06.05 Tue 変わらない夢を、流れに求めて

豊能障害者労働センター30年ストーリーNO.5

シュプレイヒコールの波、通り過ぎてゆく
変わらない夢を、流れに求めて
時の流れを止めて、変わらない夢を
見たがる者たちと、戦うため
                               中島みゆき「世情」

桜井の事務所は古い民家で戸はガタガタ、風はビュービュー吹き抜ける、ひどい雨漏りと、おばけ屋敷とも言われました。
 それでもみんなでお金を出し合い、また紹介された新聞記事を見て近所のひとからいただいたお金をかきあつめて、やっと借りた事務所でした。
 トンカントンカンと改造し、立派?に機能し始めたのでした。事務机やスチール棚などの備品はすべていただきものでかため、当初は割合広いイメージもあったのですが、当初2人だった障害者も1986年には5人となり、勢12人になっていました。荷物も増えて足の踏み場もない状態になりました。
 またやむを得ず借りたものの、桜井の事務所は冬ともなれば木枯らしが部屋を舞い、外から帰ってくるとみんなジャンパーやコートをはおらなければならず、またビールなどは部屋に置いておくと凍ってしまうので冷蔵庫に入れるという、笑えない落語のような状態でした。
 ひとりが風邪をひくと何周期も全員が風邪をリレーし、とくに障害者の健康を考えてももう限界で、今よりも広く、健康的な事務所に移転することが急務となっていました。
 その間、行政的には何とかせねばとならんという機運が高まり、箕面市障害者事業団の設立準備や、障害者作業所制度の開始などの動きはありましたが、そもそも障害者を保護訓練指導する制度の枠組みからの解放をめざして設立した豊能障害者労働センターは、その枠組みの中にある作業所への移行は解散を意味するものでした。そのため、あくまでも重度といわれる障害者の所得をともなう社会的雇用の場を貫く豊能障害者労働センターへの助成制度はまだありませんでした。
 そこでわたしたちは事務所の拡大移転について行政とも話し合い、土地の確保については行政にお願いし、建設費は労働センターが用意することになりました。
 と言っても、労働センターにはそんなお金はありませんでした。それでなくてもこの時代は毎週日曜日に梅田にカンパ活動をしながらなんとか飢えをしのぐという、そのころでさえ誰も信じられないような赤貧の中にいました。
 そこでわたしたちは当時大阪大学教授だった小川悟さんを代表に仰ぎ、近い方にも遠くの方にも実行委員をお願いし、拡大移転500万円基金運動をはじめたのでした。ほんとうは500万円では少なすぎることはわかっていたのですが、それ以上のお金を寄付していただく自信がありませんでした。
 1986年12月20日、長谷川きよしさんと小室等さんに来ていただき、箕面サンプラザで豊能障害者労働センター5周年と拡大移転応援コンサートを開きました。
 拡大移転基金は全国のたくさんの方々のご支援で約1000万円になりましたが、土地の確保が難航し、期限の問題で将来的な不安をかかえながらも箕面市桜ケ丘の市営住宅跡地が確保され、予定より約1年おくれた1987年5月、念願の新しい事務所ができあがったのでした。
 その間にも、障害者9人をふくむ19人と仲間は増え続けました。
 新しい事務所のなんともいえないいい香りがただよい、わたしたちは陶然としました。
 実際それから1週間、ただただぼうっと大きな窓にふちどられた5月の緑をながめるばかりで、仕事が手に付きませんでした。
 わたしたちは思いました。この事務所はわたしたちのものではないのだと……。
 建物を支えているのはわたしたちのつたない叫びを受けとめてくださった、いくつものうれし涙がぎっしりとつまった心のコンクリート、いくつもの勇気がぎっしりとつまった心の鉄骨なのだと……。
 そのひとつひとつの涙と勇気こそが、豊能障害者労働センターそのものだったのです。